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ある哲学者は次のように言っています。
「統体としての心は、身体や客観界に対立する精神とか観念の意味でなく、主体と客体の対立する以前の根源的基体であるとともに、主客の分裂統合を自由にあやつる作用を持つものである。」
統体として心は、いわゆる体と用、すなわち主体と客体が対立する以前にそこにある根源的な基本のものである、というような意味です。
「体は自心の正常な本源であり、用は自心の変化する妙用である。ゆえに本源と妙用が自心において緊密に掌握されるところのものとなる。そこで最も恐れられるものは、心そのものの緊張がほどけて、体と用がゆるむことである。」
このあたりは四柱推命でいうところの日干と用神のことがうまく表わされています。
体は自らの心、すなわち、自心の正常な本源であります。
ですから、体は日干のエネルギーが強いか弱いかを知るのみで、一切の色は付かず、無色透明のものであると言えます。
それに比べて用神は変化する妙用であります。
けっきょくそこに食神格があったり、傷官格があって、それぞれの特徴が変化するというわけです。
ゆえに本源と妙用が自心において、緊密に掌握されます。いずれの場合も心が一番上にあって、その次に体と用とがあるというわけです。
したがって人間として最も恐れられるのは、体と用がゆるむ、もちろん心の緊張もほどけてしまって、体と用がゆるむ。つまりそういう命式は良くないということです。
「もし、気小にして力弱ければ、すなわち、他に圧倒される。体用を一手に掌握し、これを自由にあやつるものは、心であるから、心の抑揚高低が一切の迷悟消沈を分ける決定的な契機となる。」
こうなってきますと、非常に人間の心が高度であることをついていますね。
本来、心というものは、体用を一手に掌握するものですから、掌握仕切れなかったら、ここでは抑揚高低の抑えるほうと低いほうになりますが、そういうふうになりますと、迷い、悟りが沈むということになります。
もし、日干のエネルギーが強くて、心の状態が揚と高になれば、迷悟は解けて、精神が上がるということになります。
「もし、気小にして力弱ければ、すなわち、他に圧倒される」の他とは、四柱推命学で言います「用」のことですね。あるいは現実世界で言えば他人と見ても良いでしょう。
哲学書にこういうことが書いてあるということは、これは四柱推命学というものと相当結びつきが深い言葉であり、かつ、現在の哲学界にもこういう考え方をしている人がいるのですね。
いずれにしましても、心は日干に宿るものではなく、その上位に位置するものであり、日干はあくまで精神気力の強弱をみるところであります。
亀石黒乱謳カの解説から引用させていただきました。
それでは、仏教では心というものをどう見ているのか
古(いにしえ)は 心のままに 従いぬ 心よ今は 我に従え
昔は本能のままに生きてきたけれど、立派な教えを聞いた今は、あるいは今からは、欲望というものは、自分の考えに従えと、強い決心をした気持ちを謳っています。
ここで、体や用というもの、あるいは心というものを考えましたら、けっきょくは「古は心のままに従いぬ」の心は、多くは体と用の合体したものではないでしょうか。
そうして、「心よ今は我に従え」という場合の我は、さきほど言いました本源的な心が目覚めたものであります。
「心こそ、地獄と極楽の作り手である。心の奥の心宝(しんぽう)の光を隠す心上(しんじょう)の雲を吹き払え」
もともと心の持ち方というか、それに無心に付いていく体と用の行動の結果 が、地獄を作ったり極楽を作ったりするものです。
だから、我々は心と簡単に言うけれど、実はその心の奥に心宝というものがあり、その心宝の光を隠す心の上の雲を吹き払ってしまえば、生きてあるままに、この世は極楽になると言っているのです。
最初に出てきます「心こそ」の「心」は、体と用の混合体みたいなもので、そうして、「心宝」というこの「心」こそ、さきほどの本源的な心ではないかと考えられます。
その道に 入らんと思う 心こそ 我が身ながらの 師匠なりけり
「その道に入ろんと思う心こそ」の「心」は、本源的な心であり、そういう心こそ、我が身ながらの師匠であり、自分がもっとも崇め慕う対象物としての心であります。
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